ハンセン病家族訴訟弁護団

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2018年9月10日(水)

 

【速報】原告4名の本人尋問が行われました。1審の審理で予定されていた原告本人尋問(29名)は終了しました。熊本県民テレビ 熊本日日新聞

2018年8月22日(水)

 

 ABCラジオ「おはようパーソナリティ道上洋三です」の「話のダイジェスト」のコーナーに、黄光男副団長が出演され、隔離政策によって病歴者の家族が受けた被害について語り、家族訴訟への支援を呼びかけました。

 

2018年8月6日(月)

 

 原告3名の本人尋問が行われました。琉球新報 熊本日日新聞

 

「母は堕胎の注射を受けていた」「甘え方がわからない」
原告番号188番さん

担当:大槻倫子,小出真実,國富さとみ

 

 188番さんは昭和30年代前半に療養所で生まれました。当時は,園で出産や子育てをすることが許されておらず,断種・人工妊娠中絶手術が行われていました。188番さんのお母さんも園から堕胎を迫られ,拒否しきれずに堕胎の注射を受けたのです。幸いにも堕胎の注射は失敗し,188番さんは無事にこの世に生を受けることとなりました。しかし,その後,両親と引き離され,預け先の親戚からも近所の人達からも偏見のまなざしで見られ,差別を受け続けた188番さんは,他人との深い付き合いを避け,友人にもなかなか心を許すことができなくなってしまいました。一番の味方であるはずのご両親にも,心から甘えることができず壁を感じながら生きてきたのです。
 188番さんは,今でも,差別が根強く残る島で生活をされています。そのような中で,この裁判に参加することはどれだけ勇気のいったことだったでしょうか。
 島言葉が時折混じる188番さんの静かな語り口は,当時の悲しみや苦しみをありありと思い起こさせ,同時に188番さんの内に秘めた強さを感じました。

 

「母との間に高い壁」「今でもまだ差別は残っている」
原告番号474番さん

担当:津嘉山,大槻

 

 474番さんは,お母さんにハンセン病の病歴があり,退所後に生まれたお子さんでした。
 ところが,隣近所の人が病歴についての噂を広めたため,474番さん自身も,幼いころから理由も分からないままいじめを受けてきました。同い年くらいの子から,「ばい菌近づくな」と言い放たれ,他の近所の子たちも近寄って来ず,仲良くなった子がいても,その親から突然一緒に遊ぶことを拒否されました。このような差別を受け,474番さんは,人の目を気にしたり,集団に溶け込むのが苦手になり,出来るだけ目立たないように振る舞うようになっていきました。
 また,お母さんは,自身がハンセン病の回復者であることを子供たちに隠し,学生時代や結婚前のことを話さず,474番さんから昔のことを尋ねられても答えを濁してきました。そのため,474番さんは,お母さんに何か尋ねることを躊躇するようになり,お母さんに遠慮するようになっていきました。母は秘密主義であるとして自分を納得させようとしましたが,お母さんとの間に高い壁を感じ,さみしさを感じ,自分自身の不安定さも感じながら生きてきました。
 この裁判を機にお母さんから昔のことを聞くことになり,お母さんの生い立ち,苦しみを知ることができたとともに,後遺症の悩みなども話してくれるようになって,これまでの関係が変わりつつあります。
 最後に,今もまだ社会には差別が残っていること,狭い沖縄の社会で差別を受ける地位にあり続けることの不安・恐怖,を語りました。
 30代前半という若い世代にも国の隔離政策が苛烈な被害を与えているということを強く印象づける尋問となりました。

 

「父の本当の病名を知らなかった」「親戚みんなで私を守ってくれた」
原告番号441番さん

担当:迫田学,迫田登紀子,金丸祥子


 九州の山深い落で生まれ育った441番さん。父親が星塚敬愛園に収容されたのは,お兄さんが5歳,441番さんが2歳,妹さんはわずか生後2か月のときでした。
  田畑,みかん山,杉山をもち,手広く農業を営んでいた家族は,労働のほとんどを,母親に頼らざるを得なくなりました。労働に明け暮れる母親とのふれあいをほとんど持てず,同居していた祖父母に預けられるような形で幼少期を過ごしました。
 星塚敬愛園のことは「鹿児島の病院」としか,言えません。
 家族や親せきでは「鹿児島の病院」に触れることはタブー。
  家族以外にも「鹿児島の病院」のことを話したことはありません。
 441番さんは,国賠裁判後の報道に触れるまで,ハンセン病という病気の存在を知らずにきました。
 そして,父親がハンセン病だったと知ったのは,この裁判の原告になる少し前のことです。
 この謎を解明すべく,私たちは,94歳のお父さんを星塚敬愛園に訪ねました。
 お父さんは,収容直後に離婚を決意して妻(441番さんの母親)の実家を訪ねたところ,妻の長兄が「そんなこというな。」「子どもたちのことはみんなで守るから,離婚をするな」と諭したという話を初めてされました。
 441番さんが生まれ育った集落の,大きな割合を占める親戚筋が,一致団結して,441番さんたちに真実を知らせず,差別に遭わないように守り育てたのです。
 ホテルマンとして働き,障害者や様々なハンディーを持つ人の宿泊に消極意見を持つ部下たちを,熱心に説得して改善してきたという441番さん。
 差別・弱い者いじめが大嫌いというまっすぐな性格は,この父親と親戚たちの生きざまの中で,確かに育まれてきたのだ。
 ここにも,ひとつのハンセン病家族の形がありました。

 

2018年7月24日(火)

 

鳥取訴訟で不当判決

 

 広島高裁松江支部(栂村明剛裁判長)は、ハンセン病非入所者の遺族が、①隔離政策によって受けた非入所者の被害について相続人として、また、②家族として受けた固有の被害について、それぞれ損害賠償を求めたのに対し、①については時効によって消滅したとして、②については当該原告には被害はないとして、いずれの原告の請求も認めず、控訴を棄却する不当判決を言い渡しました。1審判決は、②について、一般論としては家族に被害が及んでいたことを認めていましたが、そこからも著しく後退した不当な判断であり、上告・上告受理申立てをして、これを覆す司法判断を勝ち取るため奮闘いたしますので、引き続き、支援をお願いします。鳥取非入所者遺族訴訟弁護団声明

NHKその1 その2 時事通信 日経新聞(共同通信) 朝日新聞その1 その2 読売新聞その1 その2 毎日新聞その1 その2 その3 その4 その5 山陽新聞 熊本日日新聞 日本海新聞 山陰中央新報  

 

熊本地裁に公正判決を求める署名3万5562名分を提出

 

 本日、熊本地裁に、47都道府県すべてから届けられた公正な判決を求める署名3万5562名分を提出しました。前回提出分と合わせると8万8736名になります。

 

2018年6月15日(金)

 

 原告4名の本人尋問(4名)が行われました。琉球新報 熊本日日新聞

 

<原告本人尋問>

 

「私は生まれてはならない子」「職場でも家庭でも両親のことを隠し通してきた」
原告番号5番さん

担当:金丸(祥)、徳田

 

 5番さんは、両親が星塚敬愛園入所中に授かった子でした。
 両親は、強制堕胎から逃れるため、妊娠7ヶ月の身重の身体で手に手を取って園を脱走し、宮崎県内の母の実家で5番さんを出産しました。しかし、5番さんが4歳のときに、両親は再び療養所に強制収容されてしまいます。その後、5番さんは祖母や叔父に育てられるも、両親と離れ離れのつらい幼少時代を過ごし、中学校1年生で自ら未感染児童保育所に入所します。周囲を見返そうと勉強を頑張って、看護学校へ進学しましたが、さらにそこで看護婦を目指す先輩からさえもハンセン病患者の子に対する偏見からひどい言葉を浴びせられるなどの経験をします。5番さんは、こうした経験を通じて「両親の病気のことは絶対に人に知られてはいけない。秘密を貫くために、心をがんじがらめにして生きていかなければ。」と固く心に誓います。
 就職先でも、自分の結婚式でも、「両親は死んだ。」と説明しました。父親の危篤の知らせを受けたときでさえ、「姉が危篤」と嘘をつき、我が子を思い「帰れ、帰れ。」と叫ぶ父を前に、医師に「職場にも姑にも嘘を言ってきている。延命はせず、私の前で父を死なせてください。」と言ってしまった自分自身を今も強く責め続けていると話されました。嘘に嘘を重ねる人生を送ってきたという5番さん、しかし、それでも、自分に本当の意味で愛を教えてくれた両親を誇りに思っていると話す姿に、法廷にいた誰もが強く感銘を受けたことと思います。

 

「親戚から心ない言葉を浴びせられた」「母の口から病歴のことを聞けてよかった」
原告番号145番さん

担当:久保井、島、田村、小林、井上(滋)

 

 145番さんは、奄美和光園に入所していたことのあるお母さんを持つ、被告国が尋問を申請した原告です。法廷で語られた145番さんの力強い言葉の数々は、被告国による「145番さんには被害がないのではないか。」という見立てを見事に打ち破るものでした。
 提訴を機に、これまで謎の多かったお母さんがハンセン病患者であったことを知り、親戚から蔑むように言われた「お前の親は国から金もろうとろうが。」という言葉や、頭ごなしに「お前は。」と言われ続けてきたことの本当の意味が分かるようになったこと。今となっては何事もなかったかのようにお母さんと仲良くしている親戚たちが、かつてお母さんに対して浴びせた偏見差別の数々を思い浮かべると、親戚たちに対する見方が大きく変わってしまったこと。お父さんの他界後、近所の人がお母さんの住む実家にぴたりと寄り付かなくなったのを見て感じていた違和感。これらは、奄美大島に根強く残るハンセン病に対する偏見差別以外の何物でもなく、145番さんがこれまでお母さんの病歴のことを知らずに無防備なまま偏見差別に晒され続けてきたことの一端を示すものでした。
 「母の口からハンセン病のことを聞くことができてよかった。母の葬式で親戚から聞いていたらショックで耐えられなかったと思うから。」「ハンセン病患者本人やその家族の被害について、もっと話を聞きたいし、もっと知りたい。そして、子どもたちには被害の事実を伝えたい。」
 今回の尋問は、145番さんが原告として大きく成長し、本当の意味で家族訴訟の原告の一員となった瞬間となりました。

 

「父の人格が崩れてしまった」「最愛の夫に50年、ひた隠して」
番号135番さん

担当:徳田、大槻、上原、山城

 

 135番さんは沖縄の離島の出身、8人きょうだいの長女でした。沖縄本島に出て働いていた10代の頃、妹、二人の弟、兄があいついでハンセン病を発病し、収容されます。
 子ども達のうち4人も発病してしまったという事実を受け止められなかった父親は、酒を飲んでは母親に暴力をふるうようになります。過酷な暴力に耐えきれず、135番さんの所に逃げ込んできた母や妹たち。それを追いかけて135番さんの家までやってきては暴力をふるう父親。
 135番さんは、優しかった、大好きだった父親の「人格が崩れてしまった」と、家庭崩壊の状況を語りました。
 「一生結婚しない」と心に決めていた135番さんでしたが、「あなたと結婚できないなら死ぬ」とまで言って結婚を求める男性と出会い、結婚します。その後は、最愛の夫にも子ども達にも50年もの間、きょうだい4人の病歴のひた隠しにして生きてきました。
 控えめで口数も少なく、苦労を苦労とも思わず生きてきた彼女の人柄のすばらしさと、その過酷な被害があますところなく伝わる尋問となりました。

 

「家を焼かれた」「菌がうつると言われ、学校ではいつも風下に座らされた」
原告番号234番さん
担当:稲山、平田

 

 234番さんのお母様は234番さんが生後90日あまりで愛楽園に収容されました。
 234番さんは幼少期、登校時に道を歩いているだけで「クンチャー」と言われ、石を投げられ、学校に着いてからは、菌がうつるからと言われ、いつも風下の席に座らされていました。
 お母様は234番さんに母乳を飲ませるために愛楽園をたびたび抜けだしていましたが、村の人達から追い立てられたことから、234番さんはお母様と自宅で会うことは出来ず、いつも村の外のガマ(洞窟)で隠れるように会っていました。村の人達からの差別はそれだけにとどまらず、ある日、234番さんは村の人から家を焼かれてしまい、その後は人気のない村の奥で借家を転々とすることになってしまいました。
 お父様の再婚相手からは、「クンチャーの子供」と繰り返し言われ、234番さんだけ食事を作ってもらえない日々が続きました。
 234番さんは、19歳の頃、お母様と再会を果たしていますが、長い間親子の関係が断絶されていたことからお母様の顔が分かりませんでした。お母様が持っていた234番さんとお母様が写っている写真を見て、ようやく234さんは目の前にいる女性が自分の母親なのだと確信したのです。
 234番さんは、尋問の最後に「元患者の家族は元患者と同じかそれ以上に苦しい思いをしてきた」と証言しました。
 お母様から引き離れたばかりか、村の人から家を焼かれる等の差別を受けたという234番さんの証言は、ハンセン病の元患者本人だけではなく、その家族も同じように差別を受け、苦しい人生を歩んできたという事実を国に突きつけました。

 

<報告集会・懇親会>

 

 尋問後は、KKR ホテル熊本で、期日報告集会と、懇親会が開催されました。
 尋問を見ていた原告や傍聴人からの感想や、裁判所で尋問を受けた原告からの話をした今の気持ちや今後の決意等をお話しいただきました。
 懇親会では、原告同士が語り合い、食事をしながら交流して、親睦を深めました。

 

2018年6月14日(木)

 

・各紙で家族訴訟を取り上げてもらっています。熊本日日新聞 沖縄タイムス(ウェブ不掲載) The Japan Times

・正午から、熊本パルコ前で、公正な判決を求める署名活動を行いました。

 

2018年5月11日(金)

 

 原告4名の本人尋問が行われました(うち1名は非公開)。熊本日日新聞 琉球新報

 

<原告本人尋問>

 

「今でも偏見差別の目が怖い」「絶対に知られてはならない」
非公開原告(女性・80代)

担当:池田、久保井、守田


「患者の家族」になって60年以上、彼女は張りつめて生きてきました。実母を訪ねると家の中を消毒され、「二度と帰ってくるな」と絶縁されました。友達も手の平を返しました。遠く離れた地に移っても差別と偏見はつきまといました。行く先々で近所の人たちから陰口をたたかれました。地域の水道を使うと消毒されました。子どもは「患者の子」といじめられ泣きながら帰ってきました。故郷の夕日を思って泣けてきても、涙を呑んで耐えました。自分が病気の夫を支えなければ、子ども達を守らなければ、その一心で生き抜いてきたのです。
彼女は、これまで一度も裁判傍聴に来たことはありません。人の目が怖いからです。自分が「患者の家族」だと知られてしまうことは絶対に避けなければならないからです。「私一人だったらいい。でも子どもがいる。孫もいる。子ども達には絶対に嫌な思いをさせられない」。何度もそう言いました。
今回の尋問では、「患者の家族」であることを隠し続けてきた彼女が、関係者の前で自分の経験を伝えました。家族がどんな思いで生きてきたのか国や裁判所に知ってもらいたいとの思いからでした。裁判所に来ることすら決死の覚悟が必要だった彼女の思いを、国も裁判所も真摯に受け止めるべきです。

 

「子に葛藤を背負わせたくなかった」 愛する母を隠して生きるつらさを語る
原告番号59番

担当:吉田、井上(将)、大槻、増田


 59番さん(70代男性)は、小学校4年生のときに、ハンセン病を発症した母と、幼い妹とを長島愛生園に収容されました。その後、残された義父は、59番さんを虐待・放置し、59番さんは、お腹をすかせて放浪し、貝や草花を食べ歩く「野良犬のような」生活を送りました。
 1年後に自身も愛生園の保育所に収容され、母と喜びの再会を果たしました。また、3度の食事にありつけて、学校にも通うことができるようになりました。しかし、愛生園では、患者地帯と保育所等が厳格に区分され、無断で母と面会してはならないと強く言われていたことなどから、次第に、「怖い病気」ではないかと思うようになります。
6年生になって大阪府内の児童施設に入所することになり、その際、母から、病気のことは決して他言無用と念押しされ、母のことを隠して生きていくことになります。
職場で知り合った連れ合いの女性には、意を決して、母のことを告白し、理解を得て結婚しました。子どもらには、幼いころから、愛生園に連れて行き、母にも会わせていましたが、自身から、母のこと、病気のことを話すことはできませんでした。ご自身の国籍のことに加え、母がハンセン病であったという「二重のハンディ」を子どもらに背負わせたくないという思いからでした。
 家族のことを思いやりながら、家族を遠ざけてしまう辛い心情を吐露されたときには、裁判官も涙をこらえていたように思います。長きにわたりこうした葛藤に家族を苛ませたことこそ、国の隔離政策が家族に被害を与えたことの何よりの証拠といえるでしょう。

 

「母と兄が隔離されて、家族は崩壊」「国が正しい知識を伝える義務」
原告番号75番

担当:伊藤、鮎京、内藤、中西、田村、山本、北田


75番さんは、2歳5カ月の時に母が恵楓園に収容されました。尋問では、母がいない理由も知らぬまま、家事や炊事を小さい手で懸命に担ってきた苦労、小さな集落の中で近所からのけ者にされた経験など、隔離政策によって75番さんが強いられた寂しく暗い子ども時代、そして、故郷を離れた後にも、親戚からの心無い言葉に苦しみ、結婚、妊娠、出産と、人生の様々な場面で、母と兄の病気が頭をもたげ、心を悩ませてきた75番さんの現在まで続く被害の様子を語っていただきました。
特に、11歳の時、突然、兄が収容され、家からいなくなったときには、元々母もおらず、兄も突然いなくなり、今度は、父までいなくなってしまうのではないかという恐怖心で、兄がいなくなった理由さえ聞けなかったエピソードには、被告を含め、その場にいる多くの人がその心中を思い涙しました。
これまでの打合せでは、決して涙を見せなかった75番さんですが、尋問当日は、思いが溢れ、声を詰まらせながらもお話してくださいました。今も根強く残る差別や偏見に触れながら、「国が正しい知識を国民に伝える義務があった。」と語った75番さんの力強い訴えは、きっと裁判所にも届いたに違いありません。

 

「陳述書作成のときは(ハンセン病に)蓋をしていた」
原告番号428番

担当:八尋、久保井、小出


428番さんは、国賠裁判の原告で、判決前より実名を出して闘った金城幸子さんを母にもつ40代の男性です。(幸子さんは、判決後も語り部として活動をされ、「ハンセン病だった私は幸せ」という著書も出版されています。)陳述書を読んだ国から、被害がない(薄い)原告ではないかと名前が挙がり、原告本人尋問に立っていただきました。
428番さんは、ご兄姉とともに原告になっておられるのですが、ご自身もご兄姉も被害がないからと、提訴自体躊躇されていたそうです。母の再入所後も特段離れて暮らす寂しさを感じたことがなく、直接差別や偏見を受けたことがなかったために、被害がないと感じておられ、陳述書作成時にもそのように話をされていました。
しかし、弁護士と打合せを重ね、人生の出来事を振り返るなかで、過酷な差別体験を話す母と同化してしまっていた自分や、母が父の前で自分を過度に卑下し普通では考えられない夫婦関係を長年維持してきたことが自分の人格形成に影響を与えたことに気付き、尋問当日、そのことをはっきりとお話されました。また、高校の教員として、教育現場で時間を割いてハンセン病問題や人権問題を正しく伝える必要があるということを強く訴えられました。家族には被害がある、そのことを改めて印象付けた尋問でした。

 

2018年5月10日(木)

 

 正午から、熊本市中央区・下通商店街の熊本パルコ前で、公正判決を求める要請署名を集めました。熊本日日新聞

 

2018年4月27日(金)

 

 原告3名の本人尋問が行われました。熊本日日新聞

 

<原告本人尋問>

 

「消毒せずに連れて行くこともできたんじゃないか」「父との親子関係を築きたかった」
原田信子さん

担当:莖田、井上(雅)、大槻、国宗、徳田


 原田さんは、小学2年の7歳の時に、お父さんが療養所に収容され、その時に自宅が消毒されました。小さな集落での消毒は、周囲に知れわたり、それまで当たり前のものとしてあった近所付き合いや交友関係はなくなり、仲の良かった親戚との関係も途絶えました。消毒後には小学校でいじめられるようになりました。小中学校では、「うつる」「近くによるな」などと言われ、辛い小中学校生活を過ごされ、家では、暗くなるまで母の帰りを一人で待ちました。
 尋問にあたっては、何度も打合せを重ね、原田さんの体験と思いをどのように裁判所に伝えるかを話し合いました。消毒で生活が一変したこと、幼い頃に苦境に陥ったお母さんから「死のう」と言われたこと、お父さんのことで結婚相手から酷い言葉を言われたことなど、原田さんはご自身の辛い経験を裁判官に対して一つ一つしっかりと語られました。
 そして、お父さんが収容され離ればなれとなり、親子の関係が作れなかったことに対し、父と一緒に暮らしたかったことを語られました。国の誤った政策により、如何に親子関係と原田さんの生活が壊されたのかを裁判官に伝えることができたと思います。

 

「光田氏反応に苦しんだ」「偏見を植え付けられなければ父と違う絆を紡げたはず」
原告番号25番

担当 大槻、神谷、内海

 

25番さんは父の収容と同時に、3人の妹とともに、10歳で療養所保育所に収容されました。駅のホームで自分たちが歩いた跡や貨物列車の入り口を真っ白に消毒された恐怖の場面が収容の日の唯一の記憶です。保育所では、保育所児童と患者との接触は厳しく制限され、次第に25番さんにハンセン病への恐怖と偏見が強く植え付けられていきました。人体実験のように保育所で何度も受けさせられた光田氏反応の注射の痛みとその注射痕(25番さんは保育所にいたことの刻印と感じています。)にも長年苦しめられてきました。
社会に出てからも25番さんは自分の中に植え付けられた強い偏見と、大切な父に親孝行をしたい気持ちとの間で苦しみ続けます。父を呼び寄せ同居することが父に対する最大の親孝行だと思いながらも果たせなかったことを「唯一の後悔」だと語りました。25番さんは提訴後たくさんの資料を集めハンセン病について調べましたが、まだ偏見を払拭することはできていません。
「もし、もう少し早く国が病気に対する正しい知識を与えてくれていれば、自分の中の偏見を払拭し、父と違う形での絆を紡げたはず。」時にこみあげる涙に声を詰まらせながら、父に対する複雑な苦しい思いを包み隠さず語った25番さんの証言に、法廷中がしんと聞き入りました。多くの保育所児童原告さんたちが感じてきた苦しみを国に突きつけた証言でした。

 

「親戚の家に預けられた苛酷な幼少期」「母と20センチの壁を打ち破れない」
原告番号 9番

担当:久保井,井上(滋),田村,島


 9番さんは,黒髪小学校事件をきっかけに両親のふるさとである奄美大島に渡り,叔母さんの家に預けられました。そこでは,これまでやったことのない家事をさせられたり,親戚の家にお金を借りに行かされたりと,耐え難いような過酷な日々が待っていました。尋問では,すり鉢の底に置き捨てられたような日々を過ごす中で,どうして自分だけ親がいないのだろうというみじめな気持ちでいっぱいだったことを,体を震わせ,涙に声を詰まらせながら語ってくれました。また,9番さんは,お母さんが奄美和光園に移ってきてから最期を迎えるまで奄美和光園に足繁く通っていましたが,ついにお母さんとの間の「20センチの壁」を打ち破ることはできないまままでした。大人になってからも,仕事のあっせんや縁談の話が立ち消えになるなど,奄美大島という狭いコミュニティの中でのハンセン病患者の家族に対する厳しい差別偏見にさらされ続けてきました。
 9番さんが法廷で紬いだ数々の言葉は,国のハンセン病隔離政策により,お母さんとの家族関係を形成できなかった被害の深刻さや,9番さんの心に残った生涯癒えることのない深い傷を,まるでたて糸とよこ糸が合わさって一つの模様を作り出していくように,鮮明な形で浮き彫りにしました。9番さんの語ってくれた思いが裁判所を動かし,国が家族被害を重く受け止めて,家族に対し心からの謝罪する日が必ず来ると信じてやみません。

 

2018年4月26日(木)

 

 正午から、熊本市中央区・下通商店街の熊本パルコ前で、公正判決を求める養成所名を集めました。熊本日日新聞 毎日新聞

 

2018年3月26日(月)

 

 公正な判決を求める署名5万3174筆を熊本地裁に提出しました。毎日新聞 熊本日日新聞

 

2018年3月16日(金)

 

 第8回口頭弁論期日が開かれ、原告3名の本人尋問が行われました。また、夜には、提訴2周年の集会が開催されました。熊本日日新聞その1 その2 毎日新聞その1 その2 山陽新聞 朝日新聞

 

<門前集会・入廷行動>

 

 朝まで降っていた雨も上がり、心地よい春風の下、熊本地裁の門前で、原告、弁護士、支援者など、あわせて80人以上が集まり、多くの報道陣が詰め寄せる中で、門前集会が開かれました。門前集会では、原告団副団長の黄光男さんより、「我々原告は、尋問で、本当は話したくないことを皆さんの前で話します。国は被害がないと言い切っていますが、この胸に秘めた思いを伝えることができれば、この訴訟に勝つことができるはずです。」という力強い訴えがありました。
 また、弁護団を代表し、徳田靖之弁護士より、「私たちは、原告の皆さんが法廷で自らの苦難の人生を語るために、この裁判を起こしたと言っても過言ではありません。この裁判を、原告の皆さんが疎んでしまった家族とのつながりを回復する場にします。」という挨拶がありました。
 さらに、支援を代表し、合志市議会議員の上田欣也さんより、「原告のみなさんにとって被害を語ることは辛いことだと思いますが、家族の被害を多くの方に知っていただき、支援の輪をもっと広げていきましょう。」という心強いお言葉がありました。
 その後、原告と弁護士が一緒になって、裁判所の玄関までの道を一歩一歩踏みしめるように、入廷行動を行いました。

 

<原告本人尋問>

 

「男になって、家を守ってきた」「84年の人生、青春、かえせ」
原告番号3番さん
担当弁護士:増田、國富、大槻、神谷、山本

 

 3番さんは幼い頃にお父さん、お兄さんを相次いで収容され、お母さんまで病に奪われました。妹さんと二人で差別が根強く残る地域で生き抜くために、女を捨てて生きると誓い、血のにじむ思いで生きてこられました。そんな壮絶な人生を歩んでこられた3番さんはとても強い女性です。私達にお話をされるときでも涙を見せることはほとんどなく、いつも素敵な笑顔を見せてくださいました。
 しかし、尋問当日では、心の支えだったお兄さんまで奪われてしまった場面や、死の間際にお母さんが姉妹に最後の言葉を残された場面等で、3番さんは、過去の思いが溢れてきたかのように、これまで見たこともない悲痛な表情で、そして涙で声を震わせながら、絞り出すように当時の事をお話ししてくださいました。何十年経ってもいまだに癒えることのない悲しみや苦しみが、その場にいた多くの人の胸に刺さったことでしょう。法廷のあちこちで鼻をすする音が響き、涙を流す人がたくさんいらっしゃいました。3番さんの思いは裁判官にもきっと届いたことと思います。

 

「自分が何者なのか分からず苦しんできた」
原告番号4番さん
担当弁護士:国宗、久保田、迫田(登)、迫田(学)、守田


 4番さんは、4歳の時、父が菊池恵楓園に強制隔離され、母は幼い4番さんを置いて家を出てしまいます。4番さんは、父方、母方の祖父母の家を転々とし、一時期は実の母の元で過ごしますが、どこにも自分の居場所はなく、自ら望んで再び祖父母の家に戻り、少年期を過ごします。4番さんはいつも一人ぼっちで、実の母からさえも、抱きしめられたことも、愛されたこともありませんでした。ハンセン病の父のことも、母のことも、幼少期の自分がどのような子供だったのかを話してくれる人も誰もおらず、居場所もなかった4番さんは、一体自分は何者なのかと苦しみ続け、今でもその悩みは消えません。成人し、死んだと聞かされていた父との交流が始まりますが、4番さんは、父と出会って、自分がそれまで辛い境遇に置かれ、母に捨てられたのは父のせいだったと思うようになりました。他方で、母に愛されなかった分、父親を求める気持ちも強く、交流は続いていくのですが、愛情と父を憎む気持ちが複雑に入り交じり、時には父を責めるような発言をすることもありました。父が大切に持っていた3歳の頃の4番さんの写真は、4番さんが愛されていたことを示す唯一のものであり、父が亡くなった今も、4番さんはその写真を大切に持っています。
 尋問を実施するにあたって、何度も打ち合わせを重ねましたが、辛い記憶を掘り起こす作業は、4番さんにとってとても大変な作業でした。複雑な心境や、父を責めた後悔など、人に言いたくないという思いも強く、言葉に詰まる場面も見られましたが、尋問当日、人生を語るにはあまりに短い時間ではありましたが、ご自身の言葉でしっかりと壮絶な経験を語ってくださいました。
 4番さんは強制隔離政策のことなどはあまり知りませんでした。しかし、それでも国の誤った政策によって、家族を奪われ、翻弄された被害者がいるということが明らかにされた尋問となりました。

 

「失われた幼少期の8年間あまりにも大きい」「国は家族の被害を直視せよ」
黄光男さん
担当:神谷、大槻、吉田(哲)、井上(将)


 午前9時から行われた門前集会において、黄さんは原告団副団長として「これから原告は誰にも語れなかった、辛い経験を法廷で証言します。けれど、原告が自ら法廷で自分の被害を語らなければ伝わらない。原告が自ら法廷で自分の被害を語ることでこの裁判は勝てる!」と力強い挨拶をされました。その言葉どおり、黄さんは、原告本人尋問において、自身の思いの丈をしっかりと語られました。
 黄さんは、両親とお姉さんが療養所へ収容されたことで、1歳から9歳までの8年間を育児院で家族と離れて暮らしました。そのため、黄さんは、「家族」というものが理解できず、親子関係を築くことができないという被害を受けました。
 法廷での黄さんは、弁護士からの質問にゆっくりと落ち着いて答えました。中でも、「母親の亡骸と対面したとき、他人が死んだとしか思えない自分がいた。そんな息子にしか育たなかったことを悔やんだ」、「自分も家族との別れが悲しい、と思えるような親子関係を築きたかった」と涙ながらに胸の内を語っておられたのが心に残りました。
 黄さんは、尋問の最後に、国の代理人に向き直り、国の訴訟対応を厳しく糾弾しました。
 「国は、家族には被害がない、家族の被害は抽象的だと答弁しているが、私が1歳から9歳という大切な時間を失った事実や他の原告の被差別体験は、決して抽象的な被害ではない。これだけの被害体験を前に、被害が無い、抽象的なものに過ぎない等という答弁をすることは、白を黒というに等しいことで、到底許せない。原告らの被った様々な人生被害の責任は国にある。」
 原告団副団長として、全ての原告を代表して思いをぶつけるような胸のすく尋問でした。

 

<提訴2周年記念集会 ~思いよ届け!~ が開かれました!>


 原告本人尋問終了後、熊本市国際交流会館において、提訴2周年を記念した集会が開かれ、200人を超える方々が集まりました。集会では、まず、井上滋子弁護士より、家族訴訟の経過の概要について原告本人尋問の内容を含む報告があった後、第7回口頭弁論期日において、専門家証人として証言された黒坂愛衣先生(東北学院大学准教授)のご講演がありました。黒坂先生からは、豊富な聞き取りの経験をもとに、隔離政策による偏見差別の影響がどのようにして家族に及んだのかについて、具体例を交えながら分かりやすい言葉でご講演いただきました。
 集会の後半では、原告団の原田信子さんと奥晴海さんから、これまでの辛く険しい半生や家族訴訟にかける想いについて涙ながらに語っていただくとともに、黄光男さんから、原告本人尋問の感想を踏まえた訴えがありました。また、菊池事件国賠訴訟の弁護団より事件の説明が行われ、参加者の皆さんは、隔離政策のもう一つの被害の回復のために想いを一つにした様子でした。
 記念集会は、徳田靖之弁護士による「家族訴訟の完全勝利と、ハンセン病患者の家族の全ての被害の回復を目指します。」という力強いご挨拶により、大盛況のうちに閉会しました。

 

2017年12月4日(月)

 

第7回口頭弁論期日が開かれ、黒坂愛衣・東北学院大学准教授の証人尋問が行われました。

 

門前集会&入廷行動


午後1時から熊本地裁正面で門前集会が行われ、多数の原告と弁護団、支援者、そして報道陣が集いました。
原告団長の林さんは、「弁護団とマスコミに力を借りて何としても解決する」との決意を述べました。

また、支援を代表して、「奄美和光園と共に歩む会」代表の福田さんと熊本県民医連の木原さんが、それぞれ「全面解決に向けて何としても勝たなければいけない」「差別・偏見を乗り越える社会を」と参加者に語りかけました。

 

第7回口頭弁論期日&証人尋問


今回は、既に提出済みの第1次提訴原告、第2次提訴原告の陳述書に加えて、第2次提訴原告の
うち32名の陳述書を証拠提出しました。これで568名の原告のうち555名について陳述書
を提出したことになります。集団訴訟は数あれど、ひとつの事件でこれほどの数と質の陳述書が
作成されたことは未だかつてないのではないでしょうか。
さて、午後2時からの101号法廷は、バーの中も外もぎっしりと満員。熱気に満ちていまし
た。各地から詰めかけた支援の皆さんの多くに傍聴いただけず、外で待機となったことは残念で申
し訳ないことでした。
社会的差別について研究されている社会学者黒坂愛衣さんの証人尋問が行われました。証言は
彼女を見守るかのような多くの原告達に囲まれた中で始まりました。黒坂さんは東北学院大学の准教授で、あの「ハンセン病家族たちの物語」(世織書房)の著者です。
黒坂さんは、入念な打合せを経た大槻倫子弁護士の問いに答え、原告らハンセン病患者の家族は、①偏見・差別を受ける地位に置かれている、②病歴者と距離を置くことで差別から身を守ろうとするなどのため、家族関係の形成が阻害されている、③この社会的差別は現在も歴然とある、と証言しました。
被告側の執拗な反対尋問に対する切り返しは見事で、「家族の被害」の深刻さ、今も大きな差別偏見があることを如実に示したと言えます。


進行協議期日&報告集会


閉廷後に場所を移して裁判所と原告・被告双方代理人との間で進行協議が行われました。1時間
に及ぶ激論が交わされた結果、来年の3 月2 日、16 日の期日の仮押さえに加え、4 月27 日または5
月11 日に原告本人尋問を行う予定となりました。何名について尋問するか、誰を選ぶかについて
は、1月以降の進行協議期日で詰めていくことになりました。
また、進行協議期日と並行してKKRホテル熊本で行われた報告集会は、記者会見も兼ね、黒坂さんへの熱心な質問が相次ぎました。

懇親会

 

報告集会に引き続き懇親会が行われ、原告団、弁護団、支援者など72名の方にお集まりいただきました。そして、証人としてご証言いただいた黒坂さんや原告の方々等からいろいろなお話を聞くことができました。次回期日の傍聴に来られる方は、懇親会にもぜひご参加ください。

 

熊本日日新聞その1 その2 山陽新聞 毎日新聞

 

2017年9月22日(金)

 

熊本地裁で第6回口頭弁論期日が開かれました!

 

門前集会&入廷行動

 

法廷への入廷行動に先立って、午後1時からの熊本地裁正面での門前集会が行われ、多数の原告団と弁護団、支援者、そして報道陣が集まりました。
原告団長の林さんは「父親の遺影の前で無念を晴らしてくると誓ってきた。」と力強く決意表明されました。支援者を代表して、「ハンセン病と人権市民ネットワーク・宮古島」共同代表の知念さんと「ハンセン病回復者と共に歩む会・大分」代表の御手洗さんから、予防法違憲国賠訴訟を振り返りつつ「この裁判も絶対に勝たなければいけない。」と思いのたけを話されました。

 

第6回口頭弁論期日&進行協議期日

 

101号法廷は、原告団、弁護団と支援者で傍聴席も埋め尽くされました。裁判長から、報道記者席の空席も傍聴人に回すよう検討したいとの発言もありました。
今回は、既に提出済みの第1次提訴原告団全員の陳述書に加えて、第2次提訴原告団のうち369名の陳述書を証拠提出しました。原告の皆さん、ご協力ありがとうございます。
八尋弁護士から予防法違憲国賠訴訟に勝る充実かつ迅速な審理を求める意見を、大槻弁護士からは社会学者の黒坂愛衣さんと原告25名の尋問を求める意見を述べましたが、被告国は、相変わらず実質的な反論をしていません。弁護団側は、最高齢の原告(99歳)を含め全員が生きているうちに解決を、と裁判所の適切な訴訟指揮を求めました。
閉廷後に場所を移して裁判所と原告・被告双方代理人との間で進行協議が行われました。2時間に亘る激論の結果、次回期日(12月4日)には黒坂愛衣さんの証人尋問が決定し、本年11月から来年3月まで毎月、口頭弁論期日または進行協議期日を実施する方向性が確認されるという成果がありました。

 

【証人候補・黒坂愛衣さんのご紹介】

 

社会学者・東北学院大学准教授。回復者の家族の方々からの聴き取り結果を踏まえ『ハンセン病家族たちの物語』(世織書房2015年)を著し、家族が受けたいわれなき差別の被害を世に問うた方です。


報告集会

 

迫田学弁護士から、今回提出した書面や意見陳述の内容に関する報告が、德田弁護団長からは進行協議期日の内容に関する報告がありました。報道陣からも積極的に質問が出され、翌日の新聞には被告国の応訴態度に批判的な報道もありました。

 

「ハンセン病家族訴訟を支える全国市民の会」が結成されました!

 

報告集会に引き続き、支援連絡会「ハンセン病家族訴訟を支える全国市民の会」の結成式が行われ、15の団体を中心に約120名の支援者が集まりました。参加団体の方々からは,それぞれの立場から今回の訴訟に対する熱い思いと共に,原告と共に最後まで闘っていくという決意が述べられました。
この連絡会は、家族訴訟への支援の輪を広げるとともに、支援者同士の情報共有を進めることを目的とするもので、署名活動や小規模の勉強会といったイベントなど様々な形での支援活動に取り組む予定です。
訴訟に勝つための支援を広げるという意味だけでなく,ハンセン病家族の方々に対する差別が今なお残っているという事実を知ってもらうためにも,支援の輪を広げる必要があります。弁護団としても,運動班を中心に積極的に広報活動を行なっていく予定です。

 

懇親会

 

支援連絡会の後、KKRホテル熊本にて懇親会が行われ、原告団、弁護団、支援者など100名を超える参加者で大盛況でした。次回期日の傍聴に来られる方は、懇親会にもぜひご参加ください。

 

熊本日日新聞その1  熊本日日新聞その2 毎日新聞(全国版) 毎日新聞(熊本版)

 

2017年7月3日(月)

 

門前集会と入廷行動


 当日熊本は,最高気温34度という真夏のような暑さでしたが,原告,支援者,報道陣等たくさんの人々が参加しました。ゆだるような熱気のなかで,八尋弁護士が,「来年には,家族訴訟の大輪の花を咲かせましょう!」と檄を飛ばし,林力原告団長が,「ここは火の国」,「皆で心を一にして頑張りたい。」と力強く続け,「今日は改めて,部屋に飾ってある父親の写真に,『行ってくるよ。』と挨拶をしてきました。」と話しました。
 厳しい日差しのなか,門前に集まる一同の結束力が燃え上がるような一幕でした。

 

第5回口頭弁論期日


 今回も法廷は満席でした。傍聴券を求めて,108名もの人が列に並びました。
 期日では,原告の方がおひとり,意見陳述を行いました。長い間胸の内にあった思いを,絞り出すような声で,時折涙に言葉をつまらせながら,「どうして国は、私の心の中に、最も愛すべき父親を嫌悪せざるをえないような誤った認識を、植え付け続けたのですか。」と訴えました。裁判官の一人が,原告の方の目をじっと見ながら陳述を聞いているのが印象的でした。
 次に,高本弁護士が,第8準備書面の要旨について陳述しました。被告国が負うべき責任を,「厚生大臣ないし厚生労働大臣が負う行政責任」と,「国会議員が負う立法責任」とに分けて,明確に陳述しました。
 その後,訴訟の進め方について裁判所と原告被告とで協議が行われ,2時間にもわたる攻防が繰り広げられました。弁護団は裁判所に対し,年内には証人尋問に入るように要求しました。

 

記者会見と報告集会


 今回の裁判では,裁判後の協議が紛糾したため,お集まりいただいた方をお待たせしてしまい,申し訳ありませんでした。その間,林原告団長が,記者会見の場において,ご自身の戦争の体験を語って下さいました。
 記者会見では,意見陳述をした原告の方が,涙を流しながら,今までは話したくないという思いが強かったけれど,市民学会で初めて自分の体験を話したことをきっかけに,これだけ支援の方や弁護士,原告が頑張っているのだから,自分も原告として頑張らなければという思いで意見陳述をしましたと語りました。
 報告集会では,小林弁護士が,次回の期日で,「ハンセン病家族たちの物語」の黒坂愛衣先生を証人申請すると報告しました。また,徳田弁護士が,支援の方々のお力が当事者を勇気づけ,裁判所に対していい加減な裁判をさせないという圧力になるため,「益々支援の輪を広げていきましょう!」と会場を盛り上げました。

 

♪懇親会♪


 恒例の懇親会ですが,今回も多くの方にお集まりいただきました。
この裁判に来たことで,療養所の保育所の写真で一緒に写っていた友人に何十年かぶりに再会することができたという原告の方の声もありました。
 今回の懇親会では,黄さんのギター伴奏に合わせて,皆さん次々とマイクの前に立ち,のど自慢大会のごとく盛り上がりました。こうして,今回の期日も,温かな雰囲気のなか締めくくられました。

 

(報道)
熊本日日新聞その1 その2 毎日新聞 山陽新聞

 

2017年5月26日(金)

 

1 門前集会と入廷行動             
 同日午後1時、熊本地裁の門前で、原告、弁護士、支援者等今回も沢山の方々が集まり、報道陣が詰め寄せる中で、門前集会が開かれました。
 門前集会では、原告団代表・林さん、弁護団協同代表・德田弁護士、原告、熊本県労連・梅本さんがそれぞれ裁判への想いを述べ、「国の主張を粉砕する。最後まで闘い抜く。」という熱い決意で結束しました。               

2 第4回口頭弁論期日
 第4回期日も前回と同様101号法廷で開かれました。傍聴券を求めて多数の人が並び、法廷は満席となりました。
 期日では、まず、小林弁護士より、国の責任を法的に整理した第5準備書面の意見陳述が行われました。国がハンセン病患者の命を取るに足らないものとして無らい県運動を推進してきたことや、山梨県北巨摩郡の一家心中事件という凄惨な事件を例に挙げ、隔離政策の本質も明らかにしました。
 引き続き、金丸弁護士より、第6準備書面の意見陳述が行われ、家族の被害の本質や被害の共通性の説明がありました。隔離政策によって、家族らは、「偏見差別を受ける地位」「家族関係の形成を妨げられる地位」に置かれ続け、「社会内で平穏に生活する権利」という共通の権利を侵害されていることを明らかにしました。
 国からは、平成13年熊本判決が前提とした事実を一部争う内容の第2準備書面が提出されました。これに対して、德田弁護士が法廷で釈明を求めましたが、国からは即時に明確な回答はなく、後日弁護団から釈明内容を書面で提出することになりました。 
 また、今回の期日では、裁判官が、国の責任・家族の被害に関する原告の主張を要約して確認するという場面がありました。
3 記者会見
 期日後、弁護士会館で記者会見が行われました。小林弁護士、金丸弁護士がそれぞれ準備書面の内容を説明しました。その後、德田弁護士より、本日の裁判は主張整理の山場の1つであったこと、油断はできないが、責任論、損害論に関する原告の主張を裁判官が理解してきていると感じたことなどの話がありました。
4 報告集会&懇親会
 アークホテルの報告集会にも多数の原告や支援者が参加しました。弁護団からの説明を受け、様々な立場の方が、想いを語りました。
 ある参加者が「“自分の親はハンセン病だ。何か文句あるか”と堂々と話せる人が出てきてくれればこの裁判をした意義がある」と話されていたことが大変印象的でした。
 続いて別会場にて懇親会が行われ、80名を超える方が集い、それぞれが語り合い、黄光男さんや宮里新一さんによる家族被害を歌った弾き語りに耳をすますなど、大いに懇親を深めました。

 

(報道)

熊本日日新聞 毎日新聞

 

2017年3月3日(金)

 

門前集会と入廷行動

 

午後1時、熊本地裁前で開かれた門前集会には、原告、支援者、報道陣等、今回も多くの人々が参加しました。冒頭、八尋弁護士が裁判の進行具合について説明した後、菊池恵楓園の志村さんより「私たちの勝訴判決を反故にする国の言い分は絶対容認できない。声を上げた原告の皆さんの勇気に大変感銘している。一生懸命応援します。」と、熱のこもったエールをいただきました。また、原告団長である林力さんからも、「正義は勝つ。最後まで戦い抜いていきたい。」と、力強く決意を語ってもらいました。


第3回口頭弁論期日


第3回口頭弁論期日も、101号法廷で開かれました。傍聴券を求めて沢山の申し込みがあり、法廷は満席となりました。
期日では、まず、原告の黄さんが意見陳述を行いました。「被害を語るというのは、本当に難しいことだと実感しています。一方で、陳述書に語ることができた内容は、一人ひとりの原告が、身を裂かれるような思いで語っているものです。長い間、自分の胸の内だけに秘めてきた辛い体験や事実は、そんなに簡単に語れるものではありません。」と涙ながらに訴え、法廷はすすり泣く声で溢れました。
続いて林弁護士より第4準備書面の要旨の陳述が行われ、隔離政策が家族にもたらした様々な被害の説明がありました。家族に親の病歴を秘したまま提訴に踏み切った原告が、提訴をきっかけに離婚に至ってしまったという衝撃的な事実も明らかにされ、深刻な偏見差別が今なお続いていることを明らかにしました。
最後に、徳田弁護士からも「国の主張がいかに歴史的な事実を歪めた背信的なものであるか」について、怒りをこめた意見陳述が行われ、法廷は水をうったように静まり返りました。

次回は5月26日(金)午後2時から、次々回は7月3日(月)午後2時から、と指定されました。

 

記者会見と報告集会

 

期日後、弁護士会館にて行われた記者会見にも、沢山の報道陣が詰めかけました。記者の質問に対し黄さんが「文章をつくるときは自分も弁護士も泣いた。自分の一番つらいことを裁判官に伝えないとこの問題について伝わらない。」と答えたのが大変印象的でした。
さらに徳田弁護士は、この裁判に加わったことで離婚された原告さんについて「重く受け止めざるをえない。そういう事実が起きているのに何が時効だという思い。今日の雰囲気をみていると時効論には決着ついたのではないか。」と答えました。
また、ホテル日航熊本で行われた報告集会にも100人余りの方にお集まりいただきました。法廷に入りきれなかった方に対し、期日の報告をしたほか、多くの意見や質問が飛びかう活気溢れる報告集会となりました。

 

懇親会


最後に、ホテル日航熊本で開催された懇親会にも、80人近い方々にお集まりいただき、懇親を深めました。

 

毎日新聞 熊本日日新聞その1 その2 山陽新聞

 

2016年12月26日(月)

 

門前集会と入廷行動(午後1時~)


熊本地裁の門前で、原告、弁護士、支援者など合わせて60名以上が集まり、多くの報道陣が詰め寄せる中で、門前集会が開かれました。
門前集会では、原告団代表・林さん、副代表・黄さん、弁護団共同代表・徳田弁護士、支援者・熊本県労連・梅本さんがそれぞれ決意を述べ、その後、入廷行動を行いました。

 

第2回口頭弁論期日(午後2時~)


期日は、前回同様、101号法廷で開かれました。傍聴席は、一般傍聴101名の申込があり、抽選の結果35名が傍聴券を獲得し、特別傍聴席25名、報道席12名を合わせて72席が満席となりました。法廷の柵内も原告14名、原告代理人41名、被告代理人8名と、満員状態でした。
期日が始まり、109号事件(2月提訴の1陣59名分)について、被告から反論を記載した第1準備書面、原告から家族に対する国の責任を明らかにする第2準備書面が陳述され、231号事件(3月提訴の2陣509名分)について、訴状、答弁書が陳述されました。
引き続き、原告の奥平さんと奥さんから意見陳述が行われ、国の過った政策がいかに家族を苦しめたか、被害を国に認めさせ、今なお残る差別偏見をなくしていきたいとの思いが語られました。また、神谷弁護士から第2準備書面要旨と家族被害に向き合うことの重要性等が語られました。
続けて、徳田弁護士が、前回の釈明事項に関して、隔離政策が遅くとも昭和35年以降は憲法違反であったとする平成13年判決を、被告がこの裁判で争うのか否かを釈明しましたが、被告は、この場での回答を拒否し、次回までの間に回答することとなりました。
この期日の中で、意見陳述を裁判官や被告国の代理人が真剣な面持ちで聴き入る様子が見られた一方で、徳田弁護士の求釈明に対して、即答できない等とする被告代理人の対応について、徳田弁護士から、原告ひとりひとりがどのような思いでこの訴訟に参加しているのか、国の代理人にもっと思いを馳せて欲しい、との怒りを込めた抗議がなされる場面もありました。

 

記者会見(4時~)


期日後、KKRホテル熊本で記者会見が行われました。壇上には、意見陳述をした奥平さん、神谷弁護士、原告団代表、副代表、弁護団共同代表の徳田・八尋両弁護士が上がり、奥平さんが意見陳述をした思いを述べ、神谷弁護士が原告・被告双方の主張について、八尋弁護士が法廷での遣り取りや訴訟救助等の進行について、それぞれ説明しました。

 

報告会&懇親会(16時半~)


記者会見後、引き続き同所で、期日報告会が開催され、前回と同様、様々な立場の方が、ハンセン病問題やこの訴訟に対する思いを語りました。
その中で、患者・家族の受けた被害を知った一人一人が、それを受け止めてどう生きるかが問われている、署名活動・カンパなど、支援の具体的な活動を検討すべき時期に来ている、との考えが示されました。
その後は同ホテルの別会場にて、懇親会を行い、大いに懇親を深めました。

 

(報道)

熊本日日新聞 毎日新聞

 

2016年10月14日(金)

 

午後2時から 熊本地方裁判所101号法廷にて、裁判が行われました。

この日は、第1次訴訟の第1回口頭弁論です。原告らは、同事件の訴状及び第1準備書面を陳述しました。国は答弁書を陳述しました。

法廷では、原告の林力さん、原田信子さんが、それぞれ意見陳述をしました。林さんは、入所した父の存在を隠すことを余儀なくされた体験を語り、多くの家族に回復者の存在を隠すことを強いた隔離政策の誤りが裁判で正されるべきと訴えました。原田さんは、父が収容され、残された母とともに、周囲の偏見や差別を受け続け、母が何度も死のうと言っていたことにふれ、こうした苦しい思いを抱えて黙ったまま死にたくないと述べ、裁判に立ち上がった思いを語りました。

また、弁護団から、徳田靖之弁護団共同代表と、栗田圭弁護士が意見陳述をしました。徳田弁護士は、遺族訴訟において国が家族を「加害者」であるかのように主張して頑迷に和解を拒否してきたことや、いまだ家族に対する責任を認めず謝罪していない経緯にふれ、提訴が遅れた弁護団の対応を自己批判しつつ、家族が「れんげ草の会」を結成して、自らの被害を語る中で家族との絆を回復しながら、本件提訴を決意したことを紹介し、裁判では、原告らの被害が徹底して語られることにより、国の家族に対する加害責任が問われるべきであると述べ、裁判の意義と今後の進行の方針を明らかにしました。栗田弁護士は、無らい県運動を通じて、国・自治体が、ハンセン病患者に対する差別偏見を生み出し、助長してきたことは歴史的に明らかであると述べました。

その後、今後の進行について協議しました。原告らは、国が答弁書の中で、隔離政策がハンセン病患者に対する加害行為であるとの熊本地裁判決を認めながら、その被害が家族に及んだわけではないと否認していることについて、なぜそのような区別をするのか等につき釈明を求めました。これらに対する回答を含め、次回までに、国側で原告らの主張に対する反論をすることになりました。

その後、午後6時から くまもと県民交流館パレアにて、裁判報告集会が行われ、100名が参加しました。原告らからは、やっと自分たちの裁判が始まったことへの感慨が語られるとともに、被害を裁判所で訴えることによってしか、国の責任を認めさせることはできないとの裁判への決意が表明されました。また、退所者・入所者の元原告らや支援者から、激励のメッセージが寄せられました。最後に徳田弁護士から、参加してよかったといえる楽しい裁判にして、勝利を迎えようとの訴えがなされました。

裁判は、次回が12月26日午後2時、次々回が3月3日午後2時からと指定されました。

 

(報道)

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